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列車のこと  NO 3554

前号では温泉博士と呼ばれる友人に関して書いたが、今号では鉄道博士と呼ばれる友人に聞いた話を書いておこう。

朝の喫茶店、彼の話は人気があり、多くの常連さん達が耳を傾けて質問をしていることも多い。話題は遠い昔のことが多く、そんな列車も走っていたなと懐かしまれることもあった。

東海道新幹線が開業したのは東京オリンピックが行われた昭和39年(1964年)のことだが、当時に登場した「ひかり」は16両ではなく12両だった。まだグリーン車という呼称はなく、一等車と二等車となっていた。

一等車がグリーン車と呼ばれるようになったのは1969年10月からで、一等車は倍額だったのをグリーン料金で利用出来るようになったので随分と安くなったことになる。

16両で運転されるようになったのは1970年の万博の年からで、一気に輸送人員が増えることになった。

びっくりする編成が走ったことがあるそうだ。それは1974年の秋に東京で開催された国際会議で、世界中から来られた人達が京都を視察されることに対応して、グリーン車を12両連結するというものだったが、当時の国鉄がそれに対応したというのだから凄い話である。

「ひかり」や「こだま」にはビュッフェが存在していたが、食堂車が登場したのは山陽新幹線が開通した1975年のこと。その後に4両の2階建て車両を連結したグランド「ひかり」も登場している。

270キロ運転される300系の「のぞみ」が登場した時に逸話がある、それは午前9時の会議に間に合うというキャッチコピーを謳うことから1番列車を名古屋駅も京都駅も通過させたというもので、両市から強い抵抗感が訴えられたということに発展している。

2階建て車両の1階は一人用から4人用の個室があり、幼い子供を連れた人達に歓迎され、一人用の部屋は窓向きに座るようになっていたが、随分とシートを倒すことが可能となっていたので人気があった。

個室に入ると車掌さんが検札に来られてカードキーをくれたが、それは記念に持ち帰ることが可能だった。

ある時、東京駅に到着してホームに降りたら、一部の人達が個室を指さすようなことをしている。何かあったのだろうかと行って見ると、一人用の個室で爆睡状態の人がいる。やがて駅員さんに知らせて起こされることになったが、さぞかし驚かれただろうと想像する。

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