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強運なのか  NO 3536

振り返れば悪運が強いように思っている。様々な病気になって10回も入院したし、転院が2回あったので12回ということになるのだが、こうしてブログを打ち込めることが出来るのだから手を合わせている。

いつもお世話になっている銭湯の女将さんから「よく入院するわね。でもいつも戻って来るから凄いね」と言われているのだから考えてみれば「そうなのだ」と納得する。

昨日も福岡空港で全日空機が故障で止まった出来事があったし、今日は琵琶湖畔の旅館で火災が起きたニュースもあるが、飛行機、列車、電車、バス、船、タクシーの利用や自分の車や友人の車の助手席に乗る日々の生活の中で、こうして今日を迎えていることはびっくりするぐらい幸運と考えるべきだろう。

交通事故、航空機事故、自然の大災害の被害者のお通夜や葬儀を担当したご仏縁も多いが、そんな悲しみの中で体験する感情はこの仕事がどれほど重要な責務があることかを学ぶことになっている。

涙の成分は血液だと聞いたことがあるが、真っ赤なものが透明となって目から流れ出るプロセスで心身の大きな負担を軽減してくれるメカニズムがあるそうで、「涙は悲しい時に流れ出るものではない。涙は感情が極まった時に溢れ出るもの。人が生きている、いや生かされている証しである」というフレーズにつながる訳である。

これまでの人生を振り返ってみると、運の強さは半端じゃないことに気付く。随分前に他のコラムで書いたことを再掲するが、沖縄がアメリカ統治の時代だった1963年8月に神戸中突堤から関西汽船「浮島丸」2611トンに乗船して沖縄へ向かった。

大阪湾を出る前頃から揺れ始め、高知の沖では立つことも不可能な大揺れで奄美大島の名瀬港まで何も食事をしない状態で到着した。

低気圧の接近で台風並みの強風が吹いていたこともあるが、同行者達は全員がグロッキーになって横たわるしかなく、誰もが「降ろして欲しい」という状況だった。

その後遅れて名瀬港を出港。幾つかの島に帰港しながら神戸から66時間を要して遅れて那覇「泊」港へ到着したのだが、港は大変な状況で大勢の人達で大混乱していた

何かが起きているとは感じていたが、それが那覇から近くの島へ向かう「みどり丸」が海難事故を起こして沈没しており、多くの犠牲者が出ていた。当時の為替は1ドル「360円」でパスポートが必要だった。宿泊に利用したのはユースホステルだったが、戦争の爪跡「ひめゆりの塔」をはじめ多くの慰霊碑なども回った。

「浮島丸」はその後に転売されて「父島丸」といて東京と小笠原間に就航していた。

よくぞ転覆しなかったものだと自分達の幸運を確かめ合ったことも記憶しているが、帰路に乗船した鹿児島までの「ひめゆり丸」は波もなくて快適な船旅だった。

「ひめゆり丸」は前年に尾道造船で進水したばかりの新造船で2640トン。その後に東京航路に就航してフィリピンに売却され改造に至り、火災事故で廃船状態になったが、保険会社が所有していたこの廃船を同じ海運会社が買い取り、大改造を施して定員を増やして客船として就航したが、1987年12月20日にガソリンを満載した小型タンカーと衝突、一瞬にして大火災となり多くの被害者を出すことになった。

海南の事故で知られるのはタイタニック号の1513名の犠牲者だが、この「ドニャ・パス」と命名された船の犠牲者は公式発表で1518名。乗船名簿の義務付けがなかったところからもっと多くの乗船客がと言われていたが、海運会社の発表では4375名だったので衝撃となった。

昭和50年代に入って間もなくの頃、テレビやラジオのCMで流れて注目を集めたのが大阪南港と鹿児島港を結ぶ「さんふらわー」の登場で、13598トンの大きな「さんふらわー11」に乗船した歴史もあるが、この船の末路もフィリピンに転売され、台風の影響から沈没事故に至っている。

考えてみれば数奇な関わりがあることが分かるが、今この世に存在するのだから運が強いのだろう。何度も入院して病室の白い天井を眺めながら学んだことは、病気と寿命が別ものということであった。