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神道の葬送

明治時代を迎えて「廃仏毀釈」が打ち出されたが、それまでは仏式での葬儀が行われていたことになるが、神式の葬儀が進められるようになった現実はどのように行われていたのだろうかと興味を覚え、随分昔に様々な文献を繙いてノートに記録したことがあった。

神道では「死」に対して忌み嫌われていたところから神社の関係者が葬儀を執り行うこと自体が大変だったらしいが、どのように行うべきかというマニュアル的なものも作成されており、そんな中から昔の資料を抜粋して紹介しよう。

喪主を務める人、葬儀に携わる人は次のような行動をする。(遺族、斎主、神官などを含む)

「衣服を改める」「手を洗って清める」「口を漱いで清める」そして故人の名前を「御霊代(みたましろ)」に書き、故人に対して霊を「御霊代」に遷すと秘かに伝える。

次に「御霊代」に覆いを掛け、こもを敷いた別室にて「東」若しくは「南」向きに安置、朝夕に供物を捧げ、夜は灯明を用い、供物が届けられたら並べる。

東南とは辰巳の方角で、大阪城からその方向に我が生野区の巽が立地して い る。

湯灌は夜の12時を過ぎてから行い、整髪と爪を切ることを忘れないように進め、次に新品の装束を着用させ、枕は「東」、顔は「北」に向ける。

 仏式の場合にはお釈迦様の涅槃の姿のように「頭北面西」となっている。

 エアコンがなかった時代であり、出来るだけ低温の所へ安置し、大きな洗面器のようなものに酢を入れて側に置くという慣習もあった。

 髪の毛、爪、湯湯灌に使用した手拭、整髪に使用した櫛などの用具、また湯灌に使用した盥や桶などは庭の片隅に大きな穴を掘っておき、そこに埋めてしまう。

日が過ぎると遺族と親族は安置されている部屋に入り、柩の中に「入帷子(いれかたびら)」を奏上して別れを告げると共に、故人を納めて愛用品などを一緒に入れる。

柩の蓋を閉じたら密封と防腐を目的に「松脂(まつやに)」などを塗った後、覆いを掛けて葬儀が行われるまで安置しておく「喪屋(もや)」に移し、米、水、塩などを供える。

埋葬のために墓地に穴を掘る場合は、その土地の神様を祀ることから始めなけれならず、穢れに触れていない人が祓い清めてこもを敷き、神坐を設けて供物を捧げて祝詞(のりと)を奏上する。

 ご不幸が発生して葬儀の依頼があって参上すると、仏式で進められるお家でも神棚を祀っていることが多い時代があったが、神棚を半紙などで封印する「習わし」は広く伝わっていたが、「穢れ」という観点からすると遺族がするべきではなく、血縁関係のない人達が担当することになる訳だ。

その後に撤饌(てっせん・・供物を下げること)を行い、穴を掘り、棺を納めるための外箱を準備し、その周囲に炭の粉や灰などを入れて固めるが、先祖からの墓地に葬る場合は土地の神様を祀る儀式を行わなくてもよい。

出棺は夜に門前で庭火を燃やしておこなう、また葬列に関しては松明(たいまつ)、白杖(すわえ)、銘旗と続き、病人、老人以外は全員が歩いて向かう。尚、出棺した後の家は、留守役をする者が竹箒で掃除して払う。

墓地で進めておかなければならないことがある。それは掘った穴の四隅に篝火を焚き、到着した柩を台の上に安置し、筵を敷いて供物を準備する。

 責任者となる立場の者は、手と口を清めた後に拝礼を行い、撤饌後に柩を納めるが、その周囲に炭の粉や灰を入れ、故人の為人を記した墓誌を納め、埋めた後は少し高く盛っておき、そこに墓標を立てて芝垣を巡らす。

 竹か細い木の柱を立てて棚を造り、へぎ板、杉の葉などで屋根を葺き、礼拝して済むことになるが、塚となった状態の上に石を置いて獣が掘り返さないような処置も行う。

 葬儀に「樒(しきみ)を用いることが慣習としてあるが、常緑樹である樒は毒性があり、獣が先天的に嫌うところから埋葬時に山から切って持ち寄ったという説もある。

 「樒」は鑑真和尚がインドから持ち寄られたという説があり、新芽が出て来る時に、それがインドの無熱池の蓮の蕾によく似ているから仏式の葬儀に用いられるとも言われている説を読んだこともある。

埋葬が終わってから戻る時は、谷川なので予め定めておいた場所で榊を用いて身を祓い清め、戻ってから御霊代に礼拝を行う。

それらが終わったら門を閉じ、50日間の間を謹んで過ごすことになるが、喪主以外の身内は30日が通常だが、その地の習俗に準じることが奨励されている。


 喪舎(葬儀まで遺体を安置しておく場所。もがりのみや)がある場合は、戻ると同時にそこに入って忌みこもりを行い、定められた日数を過ぎてから払い清めて着替えて戻る。

 昔は大切な人が亡くなると遺族は山寺などで中陰期間を過ごすこともあったが、これらを行うケースは裕福な家に限られたようで、大半が自宅に戻ってその期間を過ごしていたようだ。

不幸が発生した場合、識者を選んで執事みたいに葬儀に関することを任せる訳だが、書記役を任命して弔問者やお供えものの記録、関係費用の支出など会計全般まで記録を残し、現在で言うところの「故人情報」についても書き記しておく。

神道独特の文字言葉があるので触れておくが、僧侶を「髪長」と言ったそうだし、病気のことを「夜須美(やすみ)」と表現していた文献もあった。

御霊代は「霊璽」を表わすこともあったし、高案を「つくえ」、いれかたびらは「野草衣」と書き、墓誌は「はかじるし」、墓標は「かりのしるし」幸木を「さかき」と読んだそうである。

 明治を迎えるまでの天皇の葬送の儀式は仏式で行われていたことになり、明治天皇から神式となった訳だが、天皇の葬送にあってお柩の輿を担ぐのは「八瀬童子」という歴史もあり、比叡山にもつながりがあり、京都の「葵祭り」にもその装束姿が見られるので検索をされたら勉強になる筈です。