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史実から  NO 3500

3年目を迎えた東日本大震災だが、報道番組で流されていた様々な衝撃的な映像を目にして手を合わせた。

この世に神仏の存在は? 宗教って何だろう? そんな思いを抱いたが、大きな地震が発生しないように祈っている。

発生時から数日間はテレビの番組も惨状を伝えるニュースが中心だったし、CMも自粛されていたので「ACジャパン」ばかりが印象に残っているが、視聴者から抗議が殺到して謝罪文を発表した出来事も起きていた。

人は大自然の前に無力であることを再認識させられた出来事だが、この世でこんなブログを打ち込める幸運に改めて手を合わせなければならないと考えている。

さて、昨日の巨人、阪神戦は65年振りに三重県伊勢市の球場で行われていた。両チームの歴史に残る巨人の「沢村投手」と阪神の「西村投手」の故郷での開催だが、西村投手の実家は外宮の前にある有名な「うなぎ」の店である。

過日にご仏縁に結ばれて広島県方面に出掛けたが、その際に立ち寄った「鞆の浦」が印象に残っている。高台にある福禅寺の「対潮楼」には幕末の志士達の集合写真があったが、歴史に必ず登場する人物が全て写っていたようだった。

この「対潮楼」は坂本龍馬と紀州藩が賠償責任問題に関して交渉が行われた場所。大洲藩から海援隊が借用していた「いろは丸」が紀州藩の「明光丸」と衝突。一度離れて再度衝突したために「六分の一」の大きさだった「いろは丸」が航行不能になり、曳航されて鞆の港に行く途中で沈没したものだが、その賠償に関する坂本龍馬の交渉テクニックは有名なほど語り継がれており、幕末をテーマとするドラマや映画では必ずと言ってよいほど採り上げられている。

そんな「対潮楼」に随分昔の望遠鏡が柱に設置されており、カメラで接写出来るので驚いたが、案内してくれた人物がその撮影された写真をブログに掲載していた。

この事件は我が国での初めての「海難審判」とも言われ、坂本龍馬は「万国公法」などを取り寄せて交渉したが、この地で決着するに至らず、明光丸は長崎へ向けて出航してしまい、交渉の舞台は長崎に移り、やがて紀州藩が賠償を納得した経緯として知られている。

大洲藩と言えば現在の愛媛県でNHKの朝ドラ「おはなはん」の舞台となったところだが、30数年前、「ヘラブナ釣り」のポイントとして知られる肱川の「鹿野川ダム」に行ったこともあり、鞆の浦での資料を見ながら懐かしく思い出していた。

因みにこの海難事故が発生したのは坂本龍馬が暗殺される半年前で、世の中は「風雲急」という時代に流れて行った。